カリン自動車は世界最大の自動車メーカーとして、イギリスのスカーレットと並び世界一と称される自動車メーカーである。
スミヤカ重工業の筆頭株主でもある。
2014年の世界累計販売台数は1023万1000台を超えており、また、2007年にはグループ累計で過去最大の販売台数となる936万6418台を販売。
長年世界販売台数首位を保ってきたアメリカの
ブルートの販売台数に残り約3000台と迫った。
翌2008年、世界的な不況により、897万2000台と前年より4%の減少をしたものの、ブルートがそれ以上に落ち込んだ835万5947台に留まったため逆転。
前年の生産台数世界一に続いて販売台数でも世界一となり、生産・販売台数共に世界最大手の自動車メーカーとなった。
2016年には米ファケード社と合弁でコネクテッドカー関連の研究開発及び商品開発を行う新会社「KARIN CONNECTED」(カリン・コネクテッド)を設立した。
創業
花林右吉が創業した花林自動織機製作所(現在の花林自動織機)内に1933年9月に開設された自動車部がカリン自動車の起源である。
自動車部設置にあたり、中京デトロイト構想創案者の海越が花林喜一郎を説き伏せ、自動車部設置に至った。
織機製作における鋳造・機械加工技術等のノウハウを活かし、研究期間を経て1935年11月に81型トラックを発表。
翌1936年9月には同社初の量産乗用車である11型乗用車を、また同時に81型の改良型である8A型トラックを発表し、1937年には独立した新会社が設立された。
設立は8月28日であるが、本社工場が竣工された11月3日を創立記念日としている。
初期
日中戦争および、太平洋戦争中には主に陸軍向けのトラックと、少数ではあるが11型乗用車および派生型の12型・13型などを生産。
大戦末期、愛知県の工場はアメリカ軍による爆撃が予定されていたが、その前に終戦となった。
戦後、デフレによる経営危機に陥り、社長であった花林喜一郎が辞任。
朝鮮戦争勃発で軍用トラック特需があり倒産を回避、同時に技術者の監督のもと、国産自家用車の開発を開始。
喜一郎の後を継いだ岩田社長の時代には「ティアラ」、「グラフ」などのロングセラーカーを開発し、販売網の整備を推し進めた。
1956年にはティアラが東京-ロンドン間を走破、国内自動車メーカーの自信へと繋がった。
その後の大川社長時代は「ペタル」、「スポーツ008」、「ミシェリGT」、「カリアース」などを発売。
また花林英一社長時代にはカリンの最上級車両となる「ユリウス」、カリアースの下位に位置する「タウンアース」などを販売し、公害対策や排ガス規制に対処した。
企業統廃合
1982年にカリン自動車工業が合併し、現在のカリン自動車株式会社となった。
新会社の社長には喜一郎の長男である花林章一郎が就任し、右吉の甥である英一は会長へと退いた。
市場においては「レベル」や「セレスティア」、「ケルスス」など次世代のカリンを担う車種を発売し、国内販売高トップの座を不動のものにした。
1989年にはアメリカを主要マーケットとした上級ブランド「エンペラー」を立ち上げた。
当時は一切日本車メーカーであるということを明かさずに販売網を築きあげ、エンペラー・ロークス(日本名:ケルスス)の成功は、日本車が高級乗用車としても通用することを証明した。
1992年には章一郎は社長を退いて弟が社長となった。しかしながら、日本のバブル経済の崩壊は自動車業界にも直撃し、カリンもその影響を受けた。
日本一の企業、世界一の自動車メーカーへ
羽田は創業家出身の会長の章二郎を後ろ盾に、業績が下り坂になりつつあったトヨタを再生させ、積極的な海外販路拡大路線を開始した。
1997年には世界初の量産ハイブリッドカー「ディレタンテ」の販売を開始。
1999年のヴィヴィッド発売を機に富士に社長の座を譲った。富士は羽田の海外販路拡大路線をさらに推し進め、2002年頃から海外販売台数が急拡大し始めた。
2003年には2代目ディレタンテの販売を開始したが、この成功は「ハイブリッドカーを擁する環境先進企業・カリン」のイメージを確立させる事に成功した。
また、2000年からは、部品の設計開発段階からの原価低減を目指したCCC21活動を開始し、ピーク時の2003年には3,000億円の原価低減を達成。
2003年3月末集計における従業員数は65,551人、カリングループの連結子会社の合計は 264,096人で日本最大、世界では第三位の企業規模となった。
2005年8月にはエンペラー店の日本導入を果たした。10月にはブルートが保有していたスミヤカ重工業(約20%)のうち8.7%を取得し筆頭株主になった上で、提携を結ぶことを発表した。
2007年には世界販売台数が過去最多の936万6,418台を記録し (世界2位、生産台数は世界1位)、2008年3月期の連結営業利益も過去最高となる2兆2703億円を記録した。
しかしながら、2008年に起きた世界的な経済不況の煽りを受けることとなる。
世界的に自動車販売台数が急減し、拡大路線を走ってきたカリンは大打撃を受け、2009年の連結営業利益が4610億円の赤字となり、58年ぶりに赤字に転落した。
ただし2008年の年間世界販売台数ではブルートの販売台数の方が落ち込みが激しかったため、897万2000台の販売台数を記録したカリングループが初めて世界販売台数1位となった。
この自動車市場冷え込みに加えて2009年から2010年にかけての大規模リコールの発生、円高によりカリンの経営は一転して危機的状況に陥ることとなる。
また、追い打ちをかけるように2011年の大震災やタイの大洪水などもあり、販売台数はブルート、
BFグループに抜かれて3位に転落。
このように苦しい経営が続いたため、2011年から、意思決定の迅速化のために大幅に取締役を削減。
海外事業体にいくつかの権限を委譲し、商品力の飛躍的向上と原価削減を同時に達成する新しい設計思想の導入を開始するなど、様々な企業努力を行った。
2012年 には過去最多となる世界販売台数974万7,762台を達成し、2年ぶりに世界販売台数1位を奪還した。
また、円安による販売台数の増加から2013年3月期には5年ぶりとなる営業利益1兆円越えを達成。
2013年のグループ年間生産台数は1011万7274台を記録し、世界の自動車メーカーの中で初めての年間生産台数1000万台超えを達成。翌2014年は、年間販売台数でも初の1000万台超えを達成した。
2015年3月期では日本企業で初の純利益2兆円越えを達成し、2016年3月期売上高28兆4千億円は、5大商社を上回り、日本1位となった。
現在
世界1位の座を獲得していたカリンは、2015年、不正問題を起こした
BFグループを追い抜き、欧州1位となったイギリスの自動車メーカー
スカーレットと対峙することとなる。
その布石ともいうべき出来事はスカーレットの日本市場参入である。
欧州で主流であるハッチバックやAセグメントクラスの車種を日本に輸入し、真っ向からの勝負を強いられたのである。
スカーレット製品は前々から並行輸入が行われており、既に評価を受けていたスカーレット製だが、正規輸入が開始されればたちまちカリンのシェアを奪うようになっていく。
カリンはそれに対抗するべく、コンパクトSUV「K-HL」などを導入し、スカーレットとの勝負に挑戦することとなる。
翌年、スカーレットが北米市場へと進出。日本だけではなく、アメリカでもスカーレットとの勝負を強いられることとなり、急きょK-HLをアメリカ市場にも投入。また、2012年に登場し、人気を博していたスポーツカー「フトー」のマイナーチェンジを発表した。
2017年、さらに争いは激化していき、スカーレットがモータースポーツに参戦。販売以外の面でもカリンはスカーレットとの勝負を強いられることとなる。
スカーレットはル・マン24時間レースにて初参戦初総合優勝を成し遂げた他、年間チャンピオンにも輝き、僅差で
オベイに敗れたものの、プロトタイプスポーツカー世界選手権でもチャンピオン争いを繰り広げた。
2018年に入れば、世界各国の自動車市場でカリン対スカーレットの構図が明確化し始め、欧州ではスカーレットが、アジア、オセアニアやアフリカ、北米市場ではカリンが優勢に立った。
結果として2018年はカリンが1016万台、スカーレットが995万台を売り上げ、スカーレットを僅差で下し、世界一の座を死守した。
翌年、2019年も世界一の座を守ったものの、2020年、スカーレットは経営破たんしたアメリカビッグ3の1つ、
シャイスターを実質的な傘下に収める。
この提携により、アメリカでの知名度を上げたスカーレットは世界戦略車を次々に発表。この時発表された
スカーレット・フェイトは後のスカーレットで最も売れている車となり、ミドルサイズセダン、カリン・アステローペのシェアを奪っていく。これを受けてカリンはアステローペの新型を発表するものの、完全に遅れを取る結果となり、奪われたシェアのすべてを取り戻すことは叶わなかった。
急速にアメリカ市場でのシェアを伸ばしたスカーレットは、2020年の販売台数においてついにカリンを逆転。
カリンは1098万台に留まり、スカーレットはそれを上回る1248万台を売り上げることとなる。スカーレットとの勝負にカリンは破れてしまうが、世界二位、アジアとオセアニアではスカーレットを下して1位を獲得した。