「ヴァピッド・モーター」としては1942年創業。元々は1903年の時点でブラヴァドと兄弟関係にあったヴァピッドが発端となっている。
戦時中の当時のアメリカ大統領指導の元、工場が作られ最初は「軍用車両」の製造を行っていた。民間向けの車両を作り始めたのは戦後に入ってからである。
ドミネーターの誕生とコンパクトカーの先駆け
行き過ぎた大型化失敗の反動で中型・小型クラスのサイズに焦点を絞ったヴァピッドは1964年に「ドミネーター」を発表する。
幅広い層をターゲットとしたドミネーターは成功し、1967年にはヴァピッド・ヨーロッパが設立された。
ドミネーターを生み出し、高級ブランド「ダンドリアリー」、中流層ブランド「ネプチューン」の立て直しも成功させた重役アマデウス・ウォッカを社長に抜擢。
1970年代に入ると、オイルショックの影響で他のライバルと共に影響を喰らい、急速に伸びた日本車の台頭でシェアを失ったが、コンパクトクラスの車両を販売し、史上最高の売上と黒字を記録させた。
しかし経営方針を巡っては社長に就任したウォッカ氏とヴァピッドの会長とで大きな対立を生み、1978年にはウォッカは解雇。同年、ライバルである
シャイスターの社長に就任し、同社の再建をすることとなる。
1980年代
80年代に入ると、より一層大きすぎない車も求めらるようになり、ドイツ車や日本車を徹底的に研究して生まれた「ペースメーカー」が大ヒット。
映画にもパトカーとして使用された他、アメリカ車としては久々のベストセラーの座を獲得する快挙を成し遂げた。
この時から「エアロ&ダイナミック」な空力を意識したデザインが成されるようになる。
1990年代
90年代には株式市場の安定に、ガソリン安から同社のSUVとピックアップなどの収益性の高い車が安定的な売り上げを記録した。
経営状況の好調を受けて経営不振であったイギリス
オセロットや
ガリバンターを買収。また、スウェーデンの
ボルカーも買収し、傘下に収めた。
2000年代
技術停滞に買収路線の影響に加えて、2001年のテロによる原油高騰から燃費のあまり良くないSUVやトラックが敬遠されるようになると同様の経営方針を取っていたブルートと共に経営不振に陥る。
1987年から傘下としていたイギリス、
デュボーシー社を投資グループに8億4000万ドルで売却し、2008年にはインドの
テロン社に傘下に収めていたオセロットとガリバンターを23億ドルで売却。
しかしながら金融危機により、ますます経営は悪化する一途を辿り、2010年にはボルカーを中国の企業に売却する。
One Vapid戦略
それでもなお、経営不振は続き、大苦境に陥ったヴァピッドはこれまで各地域で独自に製品開発・販売・生産を行ってきたが、これを一本体制化。
モデルの絞り込みを行い「品質」「燃費」「安全性」「洗練度」に重点を置き、この4つの項目を世界トップレベルに向上させることを目標とする。
現在
北米でも求められる低燃費思考に応える為に欧州ヴァピッドとの車種統合、車のダウンサイズ化、フルサイズの象徴であった「スタニアー」の生産終了、ビッグ3で唯一のV8エンジンをDOHC化、小排気量過給エンジン「E-ブースト」の採用など合理化を進めている。
また、1990年代にブランドの差別化に失敗したネプチューンを2010年代には廃止した。
「コンテンダー」「サドラー」を始めとするヴァピッドのピックアップトラックシリーズはアメリカ国内のベストセラーを守り続け、2011年には他の2社と共に業績が好転した。
2016年には日本市場から撤退した。同社は「日本市場が閉鎖的」であることを理由に挙げていたが根底にあるのは同社が市場に合致する車を作れなかったのが大きい。
2018年には北米市場からドミネーター及び、フラッシュを除き、セダンを中心とした乗用車を2022年末頃までに北米市場から撤退させることを発表した。
2020年にはイギリスの
スカーレットと業務提携する話が浮上したが、交渉が破断し業務提携には至らなかった。
ただし、一度は両者は犬猿の仲と言われるまでに非常に冷え切った関係だったが、現在では両者で両者の業績・モータースポーツにおける結果を称え合うなど、関係性が修復されていることが伺える。
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