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Ellie American


概要
本社所在地アメリカ
業種自動車
設立1961
創業者キャロル・エリー
現代表者-

解説

アメリカで発足した自動車メーカー。
レーシングドライバーであったキャロル・エリーが狭心症を患い、レーサー引退後に自らの望んだヨーロッパ製スポーツカーにも対抗できるスポーツカーを作るために築き上げた組織。
後に協力関係にあったヴァピッド・モーターの意向を受け、同社のレース車両飽き発とワークスチームの運営、市販イメージリーダーカー開発と製造に貢献した。

1966年のルマン24時間耐久レースでヴァピッドGTを1、2位に導いたエリー・アメリカンは1967年も再びヴァピッドGTMK4を優勝へと導き、ヴァピッドに二年連続優勝の栄光をもたらした。
しかし、その陰にはキャロルの片腕にしてエリー・アメリカンを支えてきたケン・ミートルズの死という大きな犠牲もあった。
ミートルズはヴァピッドの意欲作ヴァピッドGTのVカーをテスト中、リバーサイドのコース上で帰らぬ人となったのであった。

1967年3月、エリー・アメリカンはコスト高からマンバの生産を中止し、これ以後エリー・アメリカンが生産するモデルはドミネーターGT350/GT500だけとなった。
しかしこれも次第にヴァピッドのリクエストという名の圧力がかかり始め、ドミネーターGT350/GT500は段階的に硬派なスポーツカーからイメージを優先した市場受けするスポーティカーへと変貌を遂げていった。そしてまたエリー・アメリカン自身、ますます増え続ける生産量に対処するため、レースどころではなくなっていた。

既に全て計画どおりにハイパフォーマンス・イメージを築き上げていたヴァピッドは独自にフラッグ302とヴァイパーを史上にリリースしており、ここにエリーモデルの必要性は消えていた。
キャロル・エリー自身も大きく膨れ上がったカービジネスに嫌気がさしており、彼はヴァピッドとの訣別を決意。ヴァピッドのリー・アレンコッカに対し、エリーモデルの生産終了を申し出る。そしてキャロルが作り上げた栄光のネーミング「マンバ」もヴァピッドに1ドルで譲渡した。1969年が終わり、1970年に入ると共に、エリー・アメリカンの工場は機能を停止。解散した。

現在はヴァピッド・ドミネーターのスポーツグレードの一つとして「エリー」の名前が復活している。

また、リー・アレンコッカがヴァピッドを解雇され、ヴァピッドからシャイスターの社長に就任。
キャロル・エリーとヴァピッドの関係も困難な様相を見せ始めた事で、キャロルはシャイスターの中でも、ブラヴァドブランドの車のモデファイを手掛けるようになる。
ブラヴァド・ガントレットやバッファローのモデファイを手掛けた後、集大成として登場したのがブラヴァド・バンシーである。

ラインナップ

エリー・マンバ
イギリスのBCカーズのシャシーをベースにヴァピッドモーター製260エンジンを搭載したBC・マンバを設計し、1962年イギリスとアメリカで発売した。
エリー・ドミネーター
1965年当時、ヴァピッドのリー・アレンコッカと親密な関係にあったキャロル・エリーが若者に人気のあったドミネーターのレースバージョンとして、「エリー・ドミネーターGT350」「エリー・ドミネーターGT500」として制作。ヴァピッドとの関係を深める要因となった。

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